迷信はあらゆるスポーツに存在し、サッカーもその例外ではない。この競技には、今なお選手やファンを悩ませる数々の呪いが語り継がれている。黒猫を埋める行為、キャリアを狂わせるとされる不吉な背番号、チームの不運を断ち切るための呪医への相談など、奇妙な逸話が数多く残されているのだ。サッカーの豊かな歴史には、このような信じがたいがどこか納得させられる物語が詰まっている。
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1969年11月、オーストラリア代表「サッカルーズ」は、1970年ワールドカップの予選を戦うためモザンビークへと向かった。当時すでに自信に満ちていたオーストラリアだったが、そこで行われた2試合はいずれも引き分けに終わった。
その結果、オーストラリア代表はワールドカップ出場をかけて3試合目を戦うことになった。モザンビークの地元ジャーナリストが、チームには神秘的な助けが必要かもしれないと提案し出した。そしてジャーナリストはライバルに呪いをかけるため、呪医を訪ねるようチームに勧めた。
チームはそのジャーナリストの助言に従った。呪医は試合前夜、ゴールポストの近くに骨を埋めるよう指示し、それによって相手チームに呪いをかけるというものであった。
オーストラリア代表は試合に勝利したが、モザンビークを離れようとしたとき、呪医が報酬として1,000米ドルを要求した。これに対しサッカルーズは納得せず、支払いを拒否した。
呪医への支払いを拒んだことで、呪いは逆にオーストラリア代表自身に向けられることになった。それ以降、オーストラリアサッカー界の“ゴッドファーザー”ことジョニー・ウォーレンによれば「チームのすべてがうまくいかなくなった」という。
その後のワールドカップでも、オーストラリアは信じがたい敗北を繰り返した。数十年後、オーストラリアが国際舞台から姿を消した頃、テレビプロデューサーのジョン・サフラン(写真)がジョニー・ウォーレンにインタビューを行った。サフランは、この神秘的な呪いの裏に何かあるのではないかと確信していた。
サフランは呪いを解く方法を探るため、モザンビークへと旅し、現地の呪医たちに会った。彼はかつてチームに呪いをかけた元の呪医の霊とつながるためのさまざまな儀式を受けた。すると、ちょうどその1年後、オーストラリアは32年ぶりにワールドカップ本大会への出場を決めた。
マンチェスター・ユナイテッドにも、独自の呪いが存在するとされている。それは背番号7にまつわるものであり、サッカー界のスーパースター、クリスティアーノ・ロナウドがチームを離れて以来、この番号を受け継いだ選手たちはことごとく期待を裏切る結果に終わっている。
この背番号は、ロナウドだけでなく、エリック・カントナ(写真)やデイヴィッド・ベッカムといったサッカー界のレジェンドたちも背負ってきた。もしかすると、この番号に込められた期待の大きさこそが、後継者たちに不運をもたらしているのかもしれない。
メンフィス・デパイがチームに加入し、この背番号を引き継いだとき、ファンは彼を「次のロナウド」と呼んだ。しかしその重圧に押しつぶされ、期待されたパフォーマンスを発揮できないまま、わずか18か月でチームを去ることとなった。そして、不運に見舞われたのはデパイだけではなかった。
アントニオ・バレンシア(写真)は2012年に7番のユニフォームを着用したが、縁起が悪いと感じて再び25番に戻した。大きな才能を持っていたアンヘル・ディ・マリアも1年で終わった。チリのサッカー選手アレクシス・サンチェスもまた呪われた7番の犠牲者となった。
2022年にマンチェスター・ユナイテッドと契約し、プレミアリーグで最高額の年俸を得る選手とされたアレクシス・サンチェスは、当時の監督ジョゼ・モウリーニョから「世界最高の攻撃的プレーヤーの一人」と称された。しかし、背番号7を背負ったサンチェスはマンチェスター・ユナイテッドで期待に応えることができず、失敗に終わった。
サッカーの歴史におけるもう一つの奇妙な話がアルゼンチンで起きた。1967年、インターコンチネンタルカップを制覇したラシン・クラブ(写真)は、ライバルのインデペンディエンテ・クラブのファンがスタジアムに7匹の死んだ黒猫を埋めたことにより、呪われた。
チームは7匹の猫のうち6匹を発見することができたが、7匹目は数十年にわたり行方不明のままだった。その後、チームは1960年代の成功を再現できず、1970年代と1980年代にはさらに不振が続き、最終的には1998年に破産を宣告した。
チームが破産を宣告した翌年、呪いを解くための最後の試みが行われた。10万人以上の前で、神父が悪魔祓いを行い、チームを呪いから解放しようとした。
公衆の前で悪魔祓いが行われてから2年後、最後の猫がスタジアムに埋められているのが発見された。驚くべき展開として、最後の猫が確認され取り除かれた数ヶ月後、ラシンは1966年以来初めてアルゼンチンのタイトルを獲得した。
次の呪いはイギリスに戻り、今回はマンチェスターから約138キロメートル北に位置するバーミンガム・シティのスタジアム「セント・アンドリューズ」で起きた。伝説によれば、1906年にローマ人コミュニティがこの場所に対してチームに100年の呪いをかけたと言われている。
スタジアムで行われた最初の試合から、すでに不吉な兆しが見えていた。キックオフは激しい雪嵐のために1時間以上遅れた。悪運の始まりを告げるかのように、そのシーズンにチームは降格してしまった。
数年後、第二次世界大戦中にスタジアムのメインスタンドが焼失し、その修理費用と火災によって引き起こされた廃棄物や汚染の除去に膨大な費用がかかることとなった。
タイトルを一切獲得できなかったクラブは、劇的な手段に出ることになった。クラブの元監督ロン・サンダース(写真)は、呪いを解くためにスタジアムの照明に十字架を掲げた。
2006年、呪いがかけられてからちょうど100年後、チームは再び降格を経験した。しかしその5年後、バーミンガム・シティはリーグカップでついに優勝し、クラブ史上初となる主要タイトルを手にした。
「今後100年経っても、ベンフィカがヨーロッパ王者になることはないだろう」
ポルトガルのクラブ、ベンフィカを解任されたハンガリー人監督ベラ・グットマンは、怒りの中でこう言い放った。
1962年、ベンフィカをヨーロピアン・カップ2連覇に導いた後、グットマンはクラブ側に65%の昇給を要求した。しかし、ベンフィカの経営陣はこれを拒否した。
それ以降、ベンフィカは8度もヨーロッパの決勝戦に進出しているにもかかわらず、一度も優勝できていない。この勝てない状況を、グットマンの呪いによるものだと考える人は多い。
グットマンは、その個性的な性格と物議を醸す言動で知られていた。ホロコーストを生き延びた彼は、サッカー選手になる前はダンサーとしても活動していたという異色の経歴を持つハンガリー人監督である。
グットマンはヨーロッパや南米の複数のクラブを指導してきたが、1953年にはACミランの経営陣と対立し、解任されている。その際彼は「自分は犯罪者でも同性愛者でもないのに解任された」と発言し、波紋を呼んだ。
イタリアのクラブを騒がしく去ったグットマンは、その後南ヨーロッパの別の国ポルトガルへと渡り、まずはFCポルトの監督を務めた。さらにその後、ベンフィカの監督に就任することとなる。
グットマンの指揮のもと、ベンフィカはクラブ史上初となるヨーロピアン・カップ優勝を果たした。そして2シーズン目にはその型破りな手腕をさらに発揮し、ベンフィカのベテラン選手20人を一斉に解雇するという大胆な決断を下し、物議を醸した。
若きモザンビーク出身の天才サッカー選手エウゼビオがポルトガルを代表するスター選手となったのも、グットマンの指導によるものである。エウゼビオはベンフィカに加入し、グットマンがその才能を見出し、成功への道を切り開いた人物として知られている。
1990年、ウィーンで行われたヨーロピアン・カップ決勝でのベンフィカ対ACミランの試合前夜、エウゼビオはグットマンの墓を訪れ、呪いを解いてくれるようその霊に懇願した。しかし残念ながら、ベンフィカはその試合にも敗れてしまった。
出典: (On This Day) (Goal) (ABC News) (Sports Illustrated)
サッカー史上最も有名な呪い
黒猫や呪医も含まれる
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迷信はあらゆるスポーツに存在し、サッカーもその例外ではない。この競技には、今なお選手やファンを悩ませる数々の呪いが語り継がれている。黒猫を埋める行為、キャリアを狂わせるとされる不吉な背番号、チームの不運を断ち切るための呪医への相談など、奇妙な逸話が数多く残されているのだ。サッカーの豊かな歴史には、このような信じがたいがどこか納得させられる物語が詰まっている。
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