歴史には、私たちの世界を形作りながらも、大部分が忘れ去られてしまった名前、人物、出来事、そして思想で溢れている。その一人に、ウジェーヌ=フランソワ・ヴィドックがいる。彼の輝かしい功績は「犯罪者を捕まえるには、犯罪者のように考えなければならない」という、ただ一つのシンプルな原則にあった。そして彼にとって、それは第二の天性だった。法の線をまたぐ他の者たちとは異なり、ヴィドックは真の成功は法の側に立つことにあると理解していた。そうすることで、彼は警察に革命をもたらし、今日まで受け継がれる近代的な捜査手法の基礎を築いた。
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1775年7月、フランスのアラスに生まれたウジェーヌ=フランソワ・ヴィドック(後にヴィドックとして知られるようになる)は、ブルジョワ階級の家庭で育った。父ニコラ=フランソワ・ジョセフはパン屋と雑貨店を経営していた。
18世紀後半のフランス経済の混乱にもかかわらず、ヴィドックの父親は穀物貿易で繁栄した。その成功により、若きヴィドックはきちんとした教育を受ける機会を得たが、それを最大限に活用することにはほとんど関心を示さなかった。
10代の頃のヴィドックは問題児で、よく喧嘩をしたり、地元の兵士たちと夜遊びするために金をねだったりしていた。兄のフランソワと2人で、実家のパン屋から盗みを働くこともあった。
息子を更生させようと、ヴィドックの父親は彼を2週間投獄した。しかし、ヴィドックは教訓を学ぶどころか、家業の店から2,000フランを盗んで逃走した。これは彼の反抗心と狡猾さが、思いがけない方向で将来を形作ることになるきっかけとなった。
1791年、革命期のフランスがヨーロッパの君主制に反旗を翻す中、ヴィドックは軍の中で自らの居場所を見つけた。混乱の中で力強く活躍し、わずか6か月で15回の決闘に挑んだことから「レックレス(無謀)」という異名を得た。
ヴィドックは決闘技術で伍長に昇進したが、曹長に大胆に挑んだため不服従の罪で逮捕された。軍法会議にかけれら、処刑される可能性もあったが、逃亡を選んだ。これは、規則に縛られることを拒否する彼の姿勢を改めて示すものだった。
パリで強盗に遭った後、ヴィドックはリールへ渡り、フランシーヌ・ロンゲと関係を持つようになった。しかし、彼女に裏切られたヴィドックは、彼女の恋人を襲撃し、逮捕に至った。これが彼の獄中生活の始まりである。後に彼が「犯罪大学」と呼ぶ、人生を変える経験となった。
ヴィドックは3年近くも獄中にあった後、ついに脱獄した。数日後、当局は書類不備を理由に彼を拘留したは、彼がヴィドックだと見抜けず、再び逃走させてしまった。なぜなら彼は今回、あり得ない変装をしていたのだ。ヴィドックは修道女に扮していた。
逃亡中、ヴィドックは強盗団に誘われたが、拒否したため密告され、逮捕された。好機と見たヴィドックは、ナポレオンの警察大臣ジョゼフ・フーシェに手紙を書き、寛大な処置と引き換えに強盗団の情報を密告すると申し出て報復した。
ヴィドックは強力の見返りにパリへの安全な移動を許可されたものの、協定を無視してアラスへ逃亡した。そこで2年間過ごした後、状況の変化により再び逃亡を余儀なくされ、今度はヴェルサイユへと逃亡した。逃亡と立ち直りの繰り返しだった。
ヴェルサイユ宮殿で裏切られ逮捕されたヴィドックは、数えきれないほどの逃亡を繰り返した末についに死刑判決を受けた。自らの運命を受け入れようとせず、処刑を逃れるため、窓から川に飛び込むという大胆な逃亡を企てた。
パリに逃亡した後、ヴィドックは旧友の処刑を目撃した。これが彼の人生を大きく変えるきっかけとなった。犯罪から逃れようと決意した彼は、忠誠心を改め、彼の類まれな才能を認めた警察は、彼を情報提供者として雇うことに同意した。
ヴィドックが情報提供者として受け入れられるには、ジョゼフ・フーシェ警察大臣に自分が殺人犯ではないことを証明する必要があった。潔白が証明されると、彼は司法の目を逃れるために身元を隠していた同罪者たちを速やかに摘発した。
フランスの警察ではスパイが一般的だったが、ヴィドックはスパイを専門化し組織することで、その実務に革命をもたらした。彼は当局を説得し、市全体に権限を持つ私服部隊「捜査介入部」を設立した。
ヴィドックは、捜査員たちにそれぞれの任務に適した変装方法を訓練し、ターゲットの世界に溶け込むように仕向けた。彼は現場で精力的に活動を続け、しばしば自ら犯罪者を出し抜いた。物乞いから騙された夫まで、彼の回想録には巧妙な変装の数々が綴られている。
ヴィドックは捜査介入部は主に元犯罪者で構成されており、この事実は伝統的な法執行官を不安にさせ、多くの敵を招いた。こうした論争にもかかわらず、1817年、国王はヴィドックの過去の犯罪に対する恩赦を与え、彼の貢献は正式に認められた。
1824年、ルイ18世が崩御し、超保守派のシャルル10世が即位すると、ヴィドックのキャリアは暗転した。シャルル10世は法執行機関における犯罪者に反対し、ヴィドックの敵対者たちに権限を与えた。彼らはヴィドックを執拗に攻撃し、数年後にヴィドックはついに辞任した。
警察の任務から解放されたヴィドックは、1828年に回顧録を出版した。かなりフィクション化されていたにもかかわらず、犯罪組織の裏社会を垣間見せたその回顧録は読者を魅了し、歴史における彼の地位を確固たるものにした。
ヴィドックは問題解決者としての評価が揺るがないことを確信していたため、私立探偵事務所の先駆者の一つである「Bureau des Renseignements(案内所の意)」を設立した。債権回収と詐欺被害者の支援に特化し、手数料制で運営していた。
1849年、ヴィドックは司祭になりすました罪で再び投獄された。公爵に雇われ、元愛人からの不利な手紙を取り戻す任務を負ったが、計画は失敗に終わり、逮捕されるに至った。欺瞞と陰謀に満ちた彼の人生は、新たな章の幕を閉じた。
ヴィドックは起訴されることなく釈放され、長きにわたる法の支配に終止符を打った。晩年は隠居生活を送り、1857年4月、この伝説的な詐欺と犯罪撲滅の達人は81歳でこの世を去った。
ヴィドックの伝説は、彼の生前、自己宣伝の才覚と影響力のある作家たちとの人脈によって大きく発展した。オノレ・ド・バルザックをはじめとする多くの作家がヴィドックの人生からインスピレーションを得て、彼の謎めいた性格に基づいた登場人物を創作した。
逃亡者でありながら法執行官でもあるという彼の二面性は「レ・ミゼラブル」の主要登場人物であるジャン・ヴァルジャンとジャヴェール警部に影響を与えた。文学界と演劇界との繋がりにより、彼の功績は死後も語り継がれ、人々の心に深く刻まれた。
ヴィドックの功績は、エミール・ガボリオの「ルコック探偵」やエドガー・アラン・ポーの「C・オーギュスト・デュパン」といった探偵小説の黄金時代の基礎を築いた登場人物のモデルにもなった。
ヴィドックは演劇界と深い繋がりを持っていた。彼の生前には劇場が立ち並ぶ賑やかな通り、クリム通りでは、メロドラマ的な犯罪物語が上演され、観客を魅了していた。そして、ヴィドックの影響はこれらの作品にも色濃く反映されていた。
1939年の映画「ヴィドック」はジャック・ダロワ監督、アンドレ・ブリュレ主演で、この悪名高き人物をスクリーン上で鮮やかに描いた。彼の犯罪的功績に重点を置き、ヴィドックの初期の人生を特徴づける陰謀と欺瞞を鮮やかに描き出している。
ヴィドックの犯罪学への貢献は誇張されることもあるが、彼が私服刑事の専門部隊を創設したことは、世界中の法執行機関がすぐに採用する前例となった。
ヴィドックの評判は諸刃の剣であり続けた。彼の犯罪歴は、捜査の指導者に関する公式記録から除外されることもあった。しかし、彼の最大の遺産は今もなお生き続けている。それは、犯罪者を効果的に逮捕するには、彼らと同じように考えなければならないという紛れもない真実である。
出典: (HeadStuff) (Vidocq Society) (Britannica)
ウジェーヌ・ヴィドック:近代警察の父となった泥棒
犯罪撲滅の概念を変えた犯罪の天才
ライフスタイル 歴史
歴史には、私たちの世界を形作りながらも、大部分が忘れ去られてしまった名前、人物、出来事、そして思想で溢れている。その一人に、ウジェーヌ=フランソワ・ヴィドックがいる。彼の輝かしい功績は「犯罪者を捕まえるには、犯罪者のように考えなければならない」という、ただ一つのシンプルな原則にあった。そして彼にとって、それは第二の天性だった。法の線をまたぐ他の者たちとは異なり、ヴィドックは真の成功は法の側に立つことにあると理解していた。そうすることで、彼は警察に革命をもたらし、今日まで受け継がれる近代的な捜査手法の基礎を築いた。
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