


























グリゴリー・ラスプーチン:皇族に影響を与えた人物の実像
- ロシアの神秘主義者で自称祈祷僧だったグリゴリー・ラスプーチンは、1908年に皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の息子であり血友病だった跡継ぎのアレクセイの出血を謎の方法で止血し、皇帝夫妻の信頼を得た。シベリア出身のラスプーチンはロシア皇族に強い影響力を持ち、やがて破壊的なまでの存在になった。皇室内での彼の優遇された立場は賛否両論を巻き起こし、貴族や教会関係者は疑いや憎悪に近い感情を抱くようになった。ラスプーチンは帝国の脅威となり始末されることとなった。ラスプーチンの生い立ち、権力者への出世、そして彼の死をめぐるぞっとするような経緯についてをギャラリーでご紹介しよう。
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グリゴリー・ラスプーチン(1869–1916)
- 1869年1月、シベリアのポクロフスコエ村に生まれたグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは8人または9人兄弟のひとりだった。兄弟のうち7人は幼い頃に他界している。
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無教育
- 当時のシベリアの農民の多くがそうであったように、ラスプーチンは正式な教育を受けておらず大人になるまで読み書きができなかった。
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結婚
- ラスプーチンは1887年に農家出身のプラスコヴィア・ドゥブロヴィナと結婚した。写真は1911年の夫婦のものである。
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家庭を築く
- 田舎の夫婦は家庭を築きやがて7人の子供を授かったが、残念ながら大人になるまで生き残ったのはドミトリー(1895年生まれ)、マトリョーナ(1898年生まれ)、ヴァルヴァーラ(1900年生まれ)だけだった。写真はヴァルヴァーラが誕生して間もない頃に父親と並んで写る子供たち。
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信仰への目覚め
- 二人目の子供が生まれた頃からラスプーチンは宗教に傾倒していった。さまざまな巡礼の旅に出かけ、ヴェルコチュヤの聖ニコラス修道院で多くの時間を過ごした。そこでの滞在中に彼は読み書きを学んだ。この経験は彼に大きな影響を与え、ポクロフスコエに戻ったときには清潔さはなく奇妙な行動をとるようになった。
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祈祷僧としての人生
- その後数年間のラスプーチンは「ストラニク」(聖なる放浪者、巡礼者)として新たな人生を歩み始めた。この期間に彼は数カ月から数年にわたる長期間を家族と離れて過ごし、国内を探訪しながら各地の聖地を巡礼した。
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信者の増加
- 1900年代初めまでにラスプーチンは数人の熱心な信者を集め、彼がポクロフスコエにいる間はともに祈りを捧げた。こうした集まりはこっそりと行われ、地元の司祭や村人たちに疑念や不信感を抱かせた。
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サンクトペテルブルクへの招待
- ラスプーチンは「長老」とも称され、知性とカリスマにあふれた聖職者として故郷以外でも有名だった。女性信者との不適切な関係の噂も流れたが、ラスプーチンは精神的な導きを与える人物として尊敬されていた。彼の評判に感銘を受けたロシアの大司教テオファンは勧められるままにラスプーチンをサンクトペテルブルクに招いた。写真右にラスプーチン、中央にテオファン、左に別の聖職者が写っている。
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ロマノフ家との出会い
- 1905年ラスプーチンはサンクトペテルブルクに住む様々な貴族と知り合う。しかしラスプーチンの地位を一気に高めたのは、皇帝ニコライ2世との出会いだった。写真は皇帝ニコライ2世を中心に彼の妻と家族とともに。
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アレクサンドラと子供たち
- 1906年にラスプーチンはニコライ2世と再び会う機会を得た。この席でニコライ2世は妻のアレクサンドラ・フョードロヴナを紹介し、後に夫妻の子供たちを紹介した。写真にはアレクサンドラ、乳母のマリヤ・イワーノブナ・ヴィシュニャコーヴァ、ロマノフ家の5人の兄弟姉妹と並ぶラスプーチンの姿が写っている。
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回復したアレクセイ
- 皇帝夫妻の末っ子で一人息子のアレクセイは生まれつき血友病を患っていた。ニコライとアレクサンドラはラスプーチンの非凡な治癒能力を強く信じており、とりわけアレクセイの病気を改善できると期待していた。特にアレクサンドラは自称祈祷僧であるラスプーチンがわが子を救ってくれるという大きな期待を抱いていた。
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奇跡を起こす男
- 1912年ラスプーチンがシベリアに出かけている間に、アレクセイは大腿部と鼠径部から大量の出血を起こし瀕死の状態に陥った。アレクサンドラは緊急の電報でラスプーチンに助けを求めた。奇跡的に出血は止まり医師たちを驚かせた。アレクサンドラはラスプーチンの祈祷が息子を救ったと信じ込み、彼女にとってのラスプーチンの存在が決定的なものとなった。歴史家によればこの出来事は「ラスプーチンの伝説の中で最も謎めいたエピソードのひとつ」である。
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権力と影響力
- ラスプーチンの治癒能力に対する皇室の信頼は彼に宮廷内での絶大な影響力と権限を与えた。ずる賢く、人の心を巧みに操るこの祈祷僧は新たに得た立場を上手く利用し、女性の信者たちから賄賂を受け取ったり、性的な接待を受けたりした。
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上流社会の友人
- ラスプーチンは社交界での立場を高めるため、皇族や貴族出身の人物との交友関係を積極的に築いた。写真にはロシア皇室と強いつながりがあったミハイル・プチャーチン伯爵将軍(右)とドミトリー・ロトマン大佐(左)と一緒に写っている。
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オカルトと不可思議な出来事
- サンクトペテルブルクの上流階級はオカルトや超自然的な事柄に高い関心を寄せていたため、ラスプーチンと彼の奇行に対して強い興味を抱いていた。暇を持て余しひねくれた特権階級の人々は目新しい刺激を求めており、ラスプーチンは進んでそれをもたらした。
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賛否両論
- ラスプーチンの皇室内での優遇はたちまち物議を醸すこととなった。反対派たちは異端的な信仰と性的な問題を非難した。教会はラスプーチンの影響力に異議を唱え始め異端者とみなした。狡猾な詐欺師によって皇帝夫妻が操られ君主制を脅かしているように描かれたイラストが出回った。
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政治風刺
- このロシアの風刺画はラスプーチンを中心に、取り巻きの皇帝一家がラスプーチンを「熱狂的に崇拝」している神秘主義者として描かれている。
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ウラジーミル・プリシケヴィチ(1870–1920)
- ロシア経済は第一次世界大戦の開始、封建制の崩壊、負担の重い政府の官僚制度などが原因で急速に悪化した。アレクサンドラとラスプーチンはたびたび国家の抱える問題に責任があると非難された。下院議員のウラジーミル・プリシケヴィチはラスプーチンのアレクサンドラへの影響力を帝国にとっての脅威と考え懸念を唱えた。写真のプリシケヴィチは後にラスプーチンの暗殺に直接関与することになる。
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最初の暗殺計画
- ラスプーチンの最初の暗殺事件は政治的な動機によるものではなかった。1914年6月にポクロフスコエの自宅の近くで彼を殺そうとした33歳の農民女性キオーニャ・グセヴァに腹を刺された。ラスプーチンは重傷を負い、療養のため長期入院を要した。犯人は後に精神状態が不安定であると判断された。
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フェリックス・ユスポフ(1887–1967)
- ロシア貴族で王子でもあったフェリックス・ユスポフは1914年にロシア皇帝のただ一人の姪であるイリーナ王女と結婚した。1916年にユスポフはウラジーミル・プリシケヴィチ、ドミトリー・パヴロヴィチと共謀しラスプーチン暗殺計画を企てた。 ラスプーチンは皇帝一家との面会中、中でも皇帝の10代の娘オルガとタチアナに不適切な行為をした疑いをかけられていた。
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ラスプーチン殺害
- 1916年12月30日にラスプーチンはユスポフ家のモイカ宮殿でフェリックス・ユスポフと対面した。ユスポフはラスプーチンの食べ物や飲み物に青酸カリを入れて毒殺しようとしたが、この謎めいた人物に異常はあらわれなかった。とうとう焦ったユスポフはラスプーチンの胸を銃で撃った。それでも生きていたラスプーチンは宮殿の中庭までなんとか逃げたが、そこでプリシケヴィチにもう一度撃たれた。
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ドミトリー・パヴロヴィチ(1891–1942)
- ロシア皇帝アレクサンドル2世の孫で皇帝ニコライ2世のいとこにあたるドミトリー・パヴロヴィチは、ユスポフが最初にラスプーチンを撃った際に使用したリボルバーを提供した。パブロヴィチと残りの一行は事件の間ずっと一階の書斎で控えていた。
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革命とロマノフ王朝の最期
- 一行はラスプーチンの遺体を布で包みペトロフスキー橋からマラヤネフカ川に遺棄した。1月1日に凍った死体が発見されその翌日に皇族だけが参列した私的な葬儀が執り行われた。しかし1917年3月のロシア革命で皇帝が退位すると、兵士たちはラスプーチンの遺体を掘り起こして燃やした。300年にわたるロマノフ王朝によるロシア統治の終焉を意味した。
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影響
- 1918年7月16日から17日の夜、エカテリンブルクにて皇帝ニコライ2世とその妻アレクサンドラ、そして5人の子供たちが共産主義革命派によって処刑された。この写真は皇帝一家が処刑される前に連れて行かれた場所であるイパチェフ館を撮影した1928年のもの。
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マリア・ラスプーチナ
- マリアとしても知られるマトリョーナ・ラスプーチンは、父と皇帝ニコライ2世、アレクサンドラ・フョードロヴナとの出会い、キオーニャ・グセヴァによる襲撃、その後の暗殺について語る2冊の回顧録を執筆した。さらに1977年には「The Man Behind the Myth」と名付けられた3冊目の回顧録が出版された。
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アメリカ国民
- 1917年にマリアはボリス・ソロヴィエフと結婚し、1920年にロシアを離れ、その後パリに移り住んだ。1926年にボリスが亡くなった後、彼女はサーカスのダンサーとなりアメリカに渡り1940年に再婚した。マリアは1946年にアメリカ市民権を取得し、社会保障手当を頼りにロサンゼルスに住んだ。1977年9月27日にこの世を去った。写真は1930年にスペインの雑誌エスタンパの記者からインタビューを受ける姿。
提供元:(History) (Biography) (History Daily)
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グリゴリー・ラスプーチン:皇族に影響を与えた人物の実像
- ロシアの神秘主義者で自称祈祷僧だったグリゴリー・ラスプーチンは、1908年に皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の息子であり血友病だった跡継ぎのアレクセイの出血を謎の方法で止血し、皇帝夫妻の信頼を得た。シベリア出身のラスプーチンはロシア皇族に強い影響力を持ち、やがて破壊的なまでの存在になった。皇室内での彼の優遇された立場は賛否両論を巻き起こし、貴族や教会関係者は疑いや憎悪に近い感情を抱くようになった。ラスプーチンは帝国の脅威となり始末されることとなった。ラスプーチンの生い立ち、権力者への出世、そして彼の死をめぐるぞっとするような経緯についてをギャラリーでご紹介しよう。
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グリゴリー・ラスプーチン(1869–1916)
- 1869年1月、シベリアのポクロフスコエ村に生まれたグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは8人または9人兄弟のひとりだった。兄弟のうち7人は幼い頃に他界している。
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無教育
- 当時のシベリアの農民の多くがそうであったように、ラスプーチンは正式な教育を受けておらず大人になるまで読み書きができなかった。
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2 / 27 Fotos
結婚
- ラスプーチンは1887年に農家出身のプラスコヴィア・ドゥブロヴィナと結婚した。写真は1911年の夫婦のものである。
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3 / 27 Fotos
家庭を築く
- 田舎の夫婦は家庭を築きやがて7人の子供を授かったが、残念ながら大人になるまで生き残ったのはドミトリー(1895年生まれ)、マトリョーナ(1898年生まれ)、ヴァルヴァーラ(1900年生まれ)だけだった。写真はヴァルヴァーラが誕生して間もない頃に父親と並んで写る子供たち。
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信仰への目覚め
- 二人目の子供が生まれた頃からラスプーチンは宗教に傾倒していった。さまざまな巡礼の旅に出かけ、ヴェルコチュヤの聖ニコラス修道院で多くの時間を過ごした。そこでの滞在中に彼は読み書きを学んだ。この経験は彼に大きな影響を与え、ポクロフスコエに戻ったときには清潔さはなく奇妙な行動をとるようになった。
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祈祷僧としての人生
- その後数年間のラスプーチンは「ストラニク」(聖なる放浪者、巡礼者)として新たな人生を歩み始めた。この期間に彼は数カ月から数年にわたる長期間を家族と離れて過ごし、国内を探訪しながら各地の聖地を巡礼した。
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信者の増加
- 1900年代初めまでにラスプーチンは数人の熱心な信者を集め、彼がポクロフスコエにいる間はともに祈りを捧げた。こうした集まりはこっそりと行われ、地元の司祭や村人たちに疑念や不信感を抱かせた。
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サンクトペテルブルクへの招待
- ラスプーチンは「長老」とも称され、知性とカリスマにあふれた聖職者として故郷以外でも有名だった。女性信者との不適切な関係の噂も流れたが、ラスプーチンは精神的な導きを与える人物として尊敬されていた。彼の評判に感銘を受けたロシアの大司教テオファンは勧められるままにラスプーチンをサンクトペテルブルクに招いた。写真右にラスプーチン、中央にテオファン、左に別の聖職者が写っている。
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ロマノフ家との出会い
- 1905年ラスプーチンはサンクトペテルブルクに住む様々な貴族と知り合う。しかしラスプーチンの地位を一気に高めたのは、皇帝ニコライ2世との出会いだった。写真は皇帝ニコライ2世を中心に彼の妻と家族とともに。
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アレクサンドラと子供たち
- 1906年にラスプーチンはニコライ2世と再び会う機会を得た。この席でニコライ2世は妻のアレクサンドラ・フョードロヴナを紹介し、後に夫妻の子供たちを紹介した。写真にはアレクサンドラ、乳母のマリヤ・イワーノブナ・ヴィシュニャコーヴァ、ロマノフ家の5人の兄弟姉妹と並ぶラスプーチンの姿が写っている。
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回復したアレクセイ
- 皇帝夫妻の末っ子で一人息子のアレクセイは生まれつき血友病を患っていた。ニコライとアレクサンドラはラスプーチンの非凡な治癒能力を強く信じており、とりわけアレクセイの病気を改善できると期待していた。特にアレクサンドラは自称祈祷僧であるラスプーチンがわが子を救ってくれるという大きな期待を抱いていた。
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奇跡を起こす男
- 1912年ラスプーチンがシベリアに出かけている間に、アレクセイは大腿部と鼠径部から大量の出血を起こし瀕死の状態に陥った。アレクサンドラは緊急の電報でラスプーチンに助けを求めた。奇跡的に出血は止まり医師たちを驚かせた。アレクサンドラはラスプーチンの祈祷が息子を救ったと信じ込み、彼女にとってのラスプーチンの存在が決定的なものとなった。歴史家によればこの出来事は「ラスプーチンの伝説の中で最も謎めいたエピソードのひとつ」である。
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権力と影響力
- ラスプーチンの治癒能力に対する皇室の信頼は彼に宮廷内での絶大な影響力と権限を与えた。ずる賢く、人の心を巧みに操るこの祈祷僧は新たに得た立場を上手く利用し、女性の信者たちから賄賂を受け取ったり、性的な接待を受けたりした。
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上流社会の友人
- ラスプーチンは社交界での立場を高めるため、皇族や貴族出身の人物との交友関係を積極的に築いた。写真にはロシア皇室と強いつながりがあったミハイル・プチャーチン伯爵将軍(右)とドミトリー・ロトマン大佐(左)と一緒に写っている。
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オカルトと不可思議な出来事
- サンクトペテルブルクの上流階級はオカルトや超自然的な事柄に高い関心を寄せていたため、ラスプーチンと彼の奇行に対して強い興味を抱いていた。暇を持て余しひねくれた特権階級の人々は目新しい刺激を求めており、ラスプーチンは進んでそれをもたらした。
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賛否両論
- ラスプーチンの皇室内での優遇はたちまち物議を醸すこととなった。反対派たちは異端的な信仰と性的な問題を非難した。教会はラスプーチンの影響力に異議を唱え始め異端者とみなした。狡猾な詐欺師によって皇帝夫妻が操られ君主制を脅かしているように描かれたイラストが出回った。
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政治風刺
- このロシアの風刺画はラスプーチンを中心に、取り巻きの皇帝一家がラスプーチンを「熱狂的に崇拝」している神秘主義者として描かれている。
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ウラジーミル・プリシケヴィチ(1870–1920)
- ロシア経済は第一次世界大戦の開始、封建制の崩壊、負担の重い政府の官僚制度などが原因で急速に悪化した。アレクサンドラとラスプーチンはたびたび国家の抱える問題に責任があると非難された。下院議員のウラジーミル・プリシケヴィチはラスプーチンのアレクサンドラへの影響力を帝国にとっての脅威と考え懸念を唱えた。写真のプリシケヴィチは後にラスプーチンの暗殺に直接関与することになる。
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最初の暗殺計画
- ラスプーチンの最初の暗殺事件は政治的な動機によるものではなかった。1914年6月にポクロフスコエの自宅の近くで彼を殺そうとした33歳の農民女性キオーニャ・グセヴァに腹を刺された。ラスプーチンは重傷を負い、療養のため長期入院を要した。犯人は後に精神状態が不安定であると判断された。
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フェリックス・ユスポフ(1887–1967)
- ロシア貴族で王子でもあったフェリックス・ユスポフは1914年にロシア皇帝のただ一人の姪であるイリーナ王女と結婚した。1916年にユスポフはウラジーミル・プリシケヴィチ、ドミトリー・パヴロヴィチと共謀しラスプーチン暗殺計画を企てた。 ラスプーチンは皇帝一家との面会中、中でも皇帝の10代の娘オルガとタチアナに不適切な行為をした疑いをかけられていた。
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ラスプーチン殺害
- 1916年12月30日にラスプーチンはユスポフ家のモイカ宮殿でフェリックス・ユスポフと対面した。ユスポフはラスプーチンの食べ物や飲み物に青酸カリを入れて毒殺しようとしたが、この謎めいた人物に異常はあらわれなかった。とうとう焦ったユスポフはラスプーチンの胸を銃で撃った。それでも生きていたラスプーチンは宮殿の中庭までなんとか逃げたが、そこでプリシケヴィチにもう一度撃たれた。
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ドミトリー・パヴロヴィチ(1891–1942)
- ロシア皇帝アレクサンドル2世の孫で皇帝ニコライ2世のいとこにあたるドミトリー・パヴロヴィチは、ユスポフが最初にラスプーチンを撃った際に使用したリボルバーを提供した。パブロヴィチと残りの一行は事件の間ずっと一階の書斎で控えていた。
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革命とロマノフ王朝の最期
- 一行はラスプーチンの遺体を布で包みペトロフスキー橋からマラヤネフカ川に遺棄した。1月1日に凍った死体が発見されその翌日に皇族だけが参列した私的な葬儀が執り行われた。しかし1917年3月のロシア革命で皇帝が退位すると、兵士たちはラスプーチンの遺体を掘り起こして燃やした。300年にわたるロマノフ王朝によるロシア統治の終焉を意味した。
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- 1918年7月16日から17日の夜、エカテリンブルクにて皇帝ニコライ2世とその妻アレクサンドラ、そして5人の子供たちが共産主義革命派によって処刑された。この写真は皇帝一家が処刑される前に連れて行かれた場所であるイパチェフ館を撮影した1928年のもの。
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マリア・ラスプーチナ
- マリアとしても知られるマトリョーナ・ラスプーチンは、父と皇帝ニコライ2世、アレクサンドラ・フョードロヴナとの出会い、キオーニャ・グセヴァによる襲撃、その後の暗殺について語る2冊の回顧録を執筆した。さらに1977年には「The Man Behind the Myth」と名付けられた3冊目の回顧録が出版された。
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アメリカ国民
- 1917年にマリアはボリス・ソロヴィエフと結婚し、1920年にロシアを離れ、その後パリに移り住んだ。1926年にボリスが亡くなった後、彼女はサーカスのダンサーとなりアメリカに渡り1940年に再婚した。マリアは1946年にアメリカ市民権を取得し、社会保障手当を頼りにロサンゼルスに住んだ。1977年9月27日にこの世を去った。写真は1930年にスペインの雑誌エスタンパの記者からインタビューを受ける姿。
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グリゴリー・ラスプーチン:皇族に影響を与えた人物の実像
ロシア皇室を牛耳った自称祈祷僧の男
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ロシアの神秘主義者で自称祈祷僧だったグリゴリー・ラスプーチンは、1908年に皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后の息子であり血友病だった跡継ぎのアレクセイの出血を謎の方法で止血し、皇帝夫妻の信頼を得た。シベリア出身のラスプーチンはロシア皇族に強い影響力を持ち、やがて破壊的なまでの存在になった。皇室内での彼の優遇された立場は賛否両論を巻き起こし、貴族や教会関係者は疑いや憎悪に近い感情を抱くようになった。ラスプーチンは帝国の脅威となり始末されることとなった。ラスプーチンの生い立ち、権力者への出世、そして彼の死をめぐるぞっとするような経緯についてをギャラリーでご紹介しよう。
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